松平氏の発祥

松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274 〜1287 年)に仕えた公家の在原信盛と言い入郷したのは弘安年間(1278 〜1287 年) の頃で、現八幡神社松平東照宮境内に本屋敷を構えたと伝えられています。 信盛の子信重は、開拓を進め人馬の道を作り交通の便を図りました。 後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称しました。 ここに徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394 年4 月24 日没)の出現です。

天下人への野望

親氏は、近隣7 ケ村を手中にし松平家の勢力拡大のきっかけをつくりました。 親氏の弟泰親は、その子信広、信光を従え岩津城を落としました。 この戦いでけがをした信広を松平郷に残し、信光とともに岩津を居城としました。

松平宗家三代信光の代に岡崎・安城に勢力を広げ西三河の大半を手中にし、戦国時代の一大勢力となっていきました。 七代清廉は安城から岡崎に居城を移し、三代信光の再来を思わせる活躍をし、三河一国を支配しました。 尾張守山を攻めた清康( この時25 歳) は近臣に殺され、兵は総崩れとなりました。 八代広忠はこの時10 歳。 清廉の死により松平一族の支配圏は弱体化し乗の今川氏、西の織田氏から攻められ支配圏は縮小していきました。 広忠もまた近臣の者に殺されたことを知った今川義元は、岡崎城を手中にしました。

その時、後継ぎ竹千代(8 歳) は、織田信秀の元にありました。 松平家初代親氏の天下泰平の願いは、竹千代( 家康) に託されました。